働き方に悩んできた当事者たちが、自分らしい働き方ができるようになったきっかけやその経緯、そして彼らを背後で支えてくれた「伴走者」について、当事者目線から綴っていく「伴走談」。
第3弾のゲストは、ジャグアサロン「N.design inc.」の代表取締役である、なっちゃん社長(@jaguaartsalon)です。
肌を傷つけない消えるタトゥー(ボディーアート)である「ジャグアアート」を19歳から始めたなっちゃん社長。その背景には、ホームレスになってしまい、文字通り「生きるため」に必要だった経緯がありました。
ホームレスを脱出し、日本のジャグアアートの第一人者として活躍できているのは、ジャグアを通して出会った人々と「伴走者」の支えがあったから。
N.design inc.のオフィスで、そのお話を伺ってきました。
ライター:かめい(@okame1470)
カメラマン:げん(@inkoinko666)
インタビュー日:2018年11月23日
働くだけで、なんとかなると考えていた
かめい(以下略)
ジャグアアート(以下ジャグア)で生きていこうと決めた理由について、なんでジャグアをやろうと思ったんですか?
なっちゃん社長(以下略)
かなり過去に遡るけど、もともとジャグアを仕事にしようって思ってやり始めたわけではなくて。
自分が好きなことで生きていきたいって考えたときに、絵だったら自分が続く、やり続けられるツールだなと。そこから派生して、出会ったのがジャグアやった。他にも、似顔絵とか、ボディペイントとか、ヘナタトゥーとか、色々やった中の一つがジャグアだったんです。
いろんな絵をやってみた中で、ジャグアのどういう部分が続けれてる理由になったんですか?
昔から絵は描いてたんですよ。そこが一番だと思いますね。
小さい頃からの習慣が大きいと。それで、始めたきっかけはどんなことがあったんです?
19歳でジャグアに出会ったんですけど、そのタイミングで家がなくなったのがきっかけですね。
ホームレスになったんですね。ただ、理由もいろいろあると思ってて。どんな理由で家がなくなったんですか?
奨学金を借りて大学に行ってたんですけど、家が裕福でもないから生活費は自分で稼がないといけなくて。バイトしながら通ってたんですけど、とうとうお金が回らなくなったんですよね。当時の自分はそれでも「いける!」って思ってたのがアホでした・・・。
そう。働きすぎて体を壊して、大学も行けなくなっちゃって。半年くらいそんな状態でした。
そうそう。休学したタイミングで家賃を滞納してしまって、家を出ないといけなくなって。
キャリーバックの中に必要最低限のものを入れて出ていきました。でも、お金もないし家もない。外で生きていくには、人に頼るしかなくて。それで、友達とかに泊まらせてもらう。その代わりに、「何かお礼できないかな」っていうのでやってたのがジャグアだったんです。
ジャグアでホームレス時代を生き抜く
泊めてもらうお礼にジャグアをやり続けるようになった。これがきっかけだったんですね。
そう。もともとお金をもらうつもりでジャグアを始めたのではなくて、宿泊するためのツールがジャグアだったんです。物々交換みたいな感じ。
実際の背術後の作品
道具も持ち歩きができるのもあったかな。それで人に施術すると、みんなSNSとかにあげてくれるんです。それが宣伝になって、いろんな人から「泊まって!」って言ってくれるようになって、宿泊先がいっぱい出てきたんですよ。このタイミングで値段を付けることにしたんです。少しずつ値段を上げた結果、いつのまにか仕事になって、家も借り、大学も復学しました。
ジャグアひとつで、生活を元に戻すことができたんですね。ちなみに、ジャグアとの出会いは、いろんなバイトをしていた中の一つだったんですか?
そうそう。バイトもめっちゃ色々やったんですよ。普通にカフェとか飲食店系もやったし、薬局もやったし、派遣とか、ビールの売り子とか、探偵業務みたいなのもしたかな。
そこまでいろんなバイトをやろうと思う発想がびっくり。(笑)色々試そうとする姿勢が、なっちゃんの強みだと感じました。僕の場合やったら、何か1個見つけたら、それずっとやるって感じなんですよね。この点に関してどう思いますか?
当時は確かに色々手を出してたけど、今は思わないです。
そうそう。自分に合う仕事を探すために色んなバイトをしてたからね。
最初は、とりあえずバイトすればいいっていう発想やったけども、ちゃんと自分で稼げるものを反射的に探してたんかなぁって感じました。
ただ、当時はジャグア一本で食べていこうとは一切思ってなかったんですよ。昔に書いた夢リストを見たら、インテリアコーディネーターとか不動産もやりたいって。(笑)
そうそう。「全然ちゃうやん!」って思って。(笑)やっぱり、1本に絞るって覚悟がいるじゃないですか。だから21歳までは水商売も同時進行でしていましたね。
ジャグアにバイトに水商売、両立させた先に見えたもの
京都にあるスナック・ラウンジ・キャバクラで派遣のコンパニオンとして働いていました。当時、お金を稼ぐには2種類しかないって思ったんです。
一つが社長になることで、もう一つが夜の仕事。それしかないって思ってて。ただ、当時は起業するためのノウハウも覚悟もなかったから消去法で夜の仕事になりました。しかも、直に社長に話聞けるし!(笑)
学びやお金にもなる夜の仕事、また違ったバイト、いろんな視点が持てた時間だったんかなぁって感じました。
大学を半年間休学してたからこの半年で人生変えるつもりで動いていましたね。
ホームレスなったから、なんとかせなアカンとは思うんですけど、普通の発想やったら実家帰るのがまず出てくるんと思うんです。でも、そういう状況にはならなかった?
実家に帰って、大学も辞めるっていうのが自分の中で許せなかったんでしょうね。
そして、大学を休学した半年間で、お金に余裕が生まれて、ホームレスを脱出できた。でも、ぶっちゃけ一人やったらしんどいと思うんですよ。そういう時に、支えてくれた存在はいましたか?
ホームレス時代の「伴走者」
その半年の時の間は彼氏でしたね。全部支えてくれたって感じかな。だから、自分は変わろうと思ってたんです。彼にも迷惑かけたくなかったこともあったんで。
彼氏さんが支えてくれたからこそ、自分は変わりたい気持ちが強かったんですね。
でも、相手は変わることを求めてなかったんですよ。だから、「変わった」って言われて…。
ホームレスを脱出したのが誕生日で、その日に振られました。(笑)
そう。(笑)誰かのために変わりたいって思ってたけど、それがなくなったから、もう自分のためにやるようにしましたね。
ちなみに、当時の彼氏さんとは、ホームレスになってから付き合っていた?
そうだったんですね。なっちゃんがホームレスになっても、ちゃんと支えてくれてたっていうのは、すごい嬉しいことですね。具体的にどんな風に支えてくれてました?
泊まらせてくれる人を紹介してくれたりとか、夜の仕事行くまでのお見送りと迎えとか。
そこまでしてくれたんですね。当時、彼氏さんがなっちゃんをどういう風に見てたのかすごい気になります。(笑)
今のなっちゃんが自分らしく生きてるのを見せれたらいいですよね。
知ってるらしいんですよ。共通の友達伝いで。むこうも「元気にしてるよー。」って聞いてます。
当時の彼氏さんももちろんですけど、仕事を通していろんな人との出会いも支えになったんじゃないですか?
ある。ジャグアだけでも、19歳から20歳の間はひたすら施術してたから。1日80人とか施術してた時もあって。
施術の様子。
いろんな価値観に触れることもそうやし、人と会うこと自体が支えになったのかなぁって感じます。ホームレスって社会的に見たらあまりよく見られない立場やけど、それでも支えてくれたから。
うん、そうそう。ほんまに家がないから、ずっとキャリーバッグ引きながら祇園を歩いてるみたいな。(笑)だからお泊りになると、その人とめっちゃ仲良くなってました。
しかも、きっかけがきっかけやし、お互いの関係性は事前と探くなる…。
そうそう。「なにがそうなってそうなったん?」ってなる。
泊まらしてくれる以上、何かしらのお返しをする必要がある。話すだけでもだいぶ意識変わったと思います。それだけでも、起業家としての意識が育ったかなと感じます。
うん。結果的に、コミュニケーションの質も上がったかなぁ。
働くだけで生きていけると思っていた。でも、現実はそんなに甘くなかった。
働き続けることで体を壊し、家賃が払えなくなったことでホームレスになったなっちゃん社長。
それでも生きていく必要がある。そんな時に、大好きなジャグアを通してたくさんの出会いと、当時の彼氏さんが「伴走者」として、彼女を支えてくれた。
このホームレスの半年間が「なっちゃん社長」となる大きな変化を産んだ時間になりました。
そんな経験があると、なんでもできそうな人に見えます。しかし、彼女から「苦手なこと・できないことの方がたくさんある。」という言葉が出てきました。
苦手なこと・できないことに対して、どう向き合い、工夫して乗り越えていったのか。
後半には、「なっちゃん社長」としての働き方の工夫と、今の彼女の「伴走者」についてお聞きしていきます。
Blind Up.は関わりたい方をお待ちしています
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
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